スネ毛の歌

皆さん、スネ毛のことを真剣に考えたことはありますか。僕はあります。

 

 

 

8月6日から2週間、ベトナムでのインターンシップに挑戦してきます。
そこでまぁ路上ライブもどうせならやろうと思ってるんですが…
オリジナル曲の中でもお気に入りの「スネ毛ソング」ってのをやろうかなと。


今日はそんなスネ毛ソングの話です。


これはスネ毛を剃っている時に思い浮かんだ曲です。
僕の高校、体育祭は必ず女装する決まりなんですけど、そうするとスネ毛を剃らないといけないんですね。
早朝にわざわざ起きて入念にピカピカになるまでキレイに剃る、最高に楽しい時間でした。
でもこうしていると非常に重要な倫理的な問題が発生するわけです。

それは何か。


「今まで共に歩んできたのに、いきなり切り捨てられていくスネ毛の気持ちを考慮しないこと」です。

これは大きな問題です!
なぜなら、頑張ってきたスネ毛に何の配慮もないからです!!
\そうだー!!/(野次)

僕はスネ毛が差別されない社会を作りたい!
\そうだー!!/(野次)


だから僕は
・何の考えもなくスネ毛を切り捨てる人間への、スネ毛の復讐
・スネ毛と女の子のラブソング
この2つの要素を持つ曲を高2の時に作りました。


ですのでこれをベトナムで、スネ毛を思い、全力で、歌います。
応援してね。




ライブ、最高だよね!

穢多は本当に差別対象だったのか。

本を読むのは良いけどアウトプットする機会無いからとりあえずブログやろ~っつって無料のはてなブログ始めました。ちっす。

WordPressはなんかもう分からん。ちっす。

 

で、最近、ケガレについての本を読んだりしているのでなんとなーくケガレについて自分なりにまとめようかなと。

 

「ケガレって言葉知らん」って人は多分いないんですけど、じゃあしっかり説明しようとなると難しいのがこのケガレって概念です。

穢れが多い人間、穢多(えた)といった言葉は一度はきいたことあるかと思います。

「穢多や非人は牛の皮を削いだり殺したりする職務についたので、ケガレが多い人間として差別された」、なんて感じで学校では習うはずです。

 

 

じゃあ

ケガレとはそもそも何?

ケガレが多いとされた人間は元々嫌悪の対象として差別されていたのか?

多分みんなが日本史をやっていて持つ違和感ってここなんですよ。

 

 

 

まず、ケガレとは何か。

これは山本幸司さんが論文中で次のように述べています。

ケガレとは、人間と自然とのそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついている

これについてさらに分かりやすく、民俗学者網野善彦さんが解説してくれています。

たとえば人の死は欠損で、死穢が生じますし、人の誕生は逆にまた、それまでの均衡を崩すことになり、産穢が発生する。

高校でみんな古文を習っているので、なんとなく「あ~あのことか~」ってなると思います。

子供産んだ女性はしばらく隔離されるし生き物の死なんか見た日にはお休みもらえちゃう(物忌み)っていうあれです。あれ。

こういったケガレの思想の根幹は「欠損」というロジックで一本通ってんのかぁとか分かると楽しいよね。英文法もそうだけど、一本筋の通ったロジックを見つけると楽しくなるよね。この楽しさ分かってほしいなぁって思いながら塾講師バイトやってます。どうでも良いなこれ。

 

 

で、

ケガレ思想のロジックが分かったところで、それは昔から本当に差別される対象だったのかって話です。

結論から言うと、「最初から嫌悪の対象だったわけではない」です。

でもなぜケガレの多い人が差別されるようになったかという話の前に、まず理解しておくべき前提があります。

それはケガレは伝染すると考えられていたことです。

ケガレは伝染するので、ケガレに対する忌避感が強まることは、ケガレの多い人を隔離することに繋がっていきます。

①ケガレそのものに対する忌避感が強まる→②ケガレは伝染するので避けたい→③ケガレ多き人間を隔離、差別

といった流れになるわけです。

②があることは明白なわけですけど、問題なのは①なんですよ。

本当に昔から嫌悪の対象だったのか?

元々は違った感情を抱かれていたのに、何らかの変化が生じたのではないか?

 

 

これずっと気になってたんですけど、やっぱりすげぇ複雑なんですよねぇ

日本史の一番の時代の転換期である14,15世紀ごろなんかは特にそうだし、東と西じゃ元にある価値観がまるで違う。

 

 

 

なのでとにかく簡潔にまとめてしまうと

「昔は畏怖の対象だったのが、次第に嫌悪の対象になってしまった」

としか言えないんですね…悲しい。

そもそも穢多が扱っている牛や馬といった4本足の動物は聖なるものだったので、それを扱っている時点で神聖な人物であるはずなんですよ。

実際に畏怖の対象として見られている。

なのに段々とケガレそのものが嫌悪の対象になってしまった。

何でやねんってなりますよね。

それはみんな思うらしいんですし調べるんですけど、やっぱりまだまだ議論は終わっていないそうです。

ですから一般人としては、穢多が必ずしも差別対象であったかというとそうではないよねって部分だけでも理解できたらいいのではないかなと思います。

 

 

もやもやした感じで終わっちゃったな、、、

大学に行く意義について。

大学に行く意義って多分みんな一度は考えたことあると思うんですけど、、、

答え見つかりました?文系の人。

いや、「セックスする」以外でお願いします…

いや、「酒飲む」以外でお願いします…

うるせぇセックスはしてぇよ!!

したいね…

てなわけで最強に大学行くやる気をなくしている仲村です。

多分本当に大学行く意味って「有名大新卒のプレミアチケット」を手に入れるための手段でしかないよねってところに行き着くのがオチだと思う。

東大だと「東大行くだけの頭の良さ持っている証明」になるけどまぁ卒業する必要性はゼロだからね。

いや、

「大学生」という肩書そのものが特権だし、「モラトリアム期間の延長」じゃんとか言う反論もあると思う。

そういわれたらその通りだなと思うしシンプルに論破されたなぁって思います。

 

まぁとりあえず、もし大学行く意味が上記3つだったとして、考えなければならないのは費用対効果のことだと思います。

「人生は選択の連続」とか言われるけど、もし言葉を付け加えるとしたら「どこに投資するかの選択の連続」なんですよ。

投資とか言うと俺もやったことないしあれだけど、

まぁ要するにリスク取ってどれだけリターン得られるかのマネーゲームじゃないですか。

別に人間の行動全般に言えるじゃないですか、リスク取ってどれだけリターン得られるかを常に計算しながら動いてるってのは。

例えば100円でチョコ買ったら

「100円の損失」というリスクと、「チョコから得られる満足」というリターンを天秤にかけてリターンの方がでかいよねって考えながら買い物するわけです。

経済学のやつだね、ちょっと違うか。

んで、大学に入るってのは

「18~22歳の時間」と「学費400万円」というリスクを負って、どれだけのリターンが得られるか。

という一種のギャンブルなわけです、投資って言うよりもはやギャンブル。

費用対効果って言ったり投資って言ったりギャンブルって言ったりうるせえな仲村。

 

まぁとりあえず留年しないように、卒業しないように、せいぜい頑張ります…